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663年、朝鲜南西部の白村江(はくすきのえ)で、东アジアを揺るがす一大决戦が行われました。决戦の名は「白村江の戦」。唐・新罗(しらぎ)、倭国(九州王朝)・百済(くだら)の二つの连合军による、朝鲜半岛の権益を巡る一大决戦は、唐・新罗连合军の胜利によって幕を下ろしました。この戦いにより、百済は名実共に灭亡し、新罗による朝鲜半岛统一へと时代は动き始めます。この教科书でも习った白村江の戦が、実は日本にも多大な影响を及ぼしていた事をどのくらいの方がご存じでしょうか? 近未来の朝鲜半岛有事にも少なからぬ示唆を与えるこの戦いの结末について、书いてみたいと思います。
倭国(九州王朝)は、かつて、北方の大国・高句丽と朝鲜半岛で、その権益を巡って戦いました。なぜ、倭国、ひいては日本が朝鲜半岛に古代から関わらなければならなかったのかと言う问题は、この际は抜きにしますが(いずれ取り上げようと思っています)、とにかく、倭国は事ある毎に朝鲜半岛に一定のプレゼンス(影响力)を行使してきました。その帰结が先に挙げた「白村江の戦」なのですが、この戦争で负けた倭国・百済连合の一方の当事者・百済は名実共に灭亡し、その领土は新罗に并合されてしまいました。では、もう一方の当事者、倭国にはどの様な结末が待っていたのでしょうか?
「倭国は灭亡していた」。ずばり、それがこの答です。国が灭亡したと言う证拠は、「日本书纪」671年の条の、
「筑紫君萨夜麻(ちくしのきみ・さちやま)が唐から帰国した」(要约)
と言う记事です。「筑紫君」と言うのは、「倭王」の事です。自らは、「日出づる処の天子」・「オオキミ」等と称していた倭王ですが、大和朝廷(日本国)侧からは、筑紫君と呼ばれていました。しかし、この事が倭国の灭亡の证拠になるのかと思われる方もおられるでしょう。それが、证拠になるのです。
白村江の戦で、戦争が终结したのが、663年。倭王(筑紫君萨夜麻)が唐から帰国したのが、671年。その间、実に8年。一国の王(现代で言えば、天皇だとか首相)が他国に8年间もいたと言う事実。更に、倭国・百済连合が「败戦国」だったと言う事実。これらが物语るものは一つ。それは、倭王が「戦犯として戦胜国・唐に抑留されていた」と言う事です。
败戦国の元首(王)が戦胜国に抑留される。これは、先の大戦で満州国皇帝だった爱新覚罗傅仪(ラストエンペラー)がソ连、更に中国の抚顺収容所に「戦犯」として収监された事実を见ても、明らかです。倭王の场合も、おそらく、傅仪同様、戦後、唐に抑留されていたものと思われます。そして、8年後、ようやく、「釈放・帰国」を许されたのでしょう。しかし、帰国を许された倭王に、帰るべき祖国は最早ありませんでした。
九州、かつて、东アジアの超大国、隋・唐に対して対等外交で临んだ「倭国」の地は、倭国に代わって日本列岛の新たな「代表」となった「日本国」(大和朝廷)の领土と化していました。そして、その新领土・九州を管理统括する为、「日本国」が设置したのが、かの有名な「太宰府」なのです。
太宰府と言うと、皆さんは単に朝廷(政府)の九州に於ける地方出先机関と言ったイメージしか无いのでは无いでしょうか? しかし、当时の太宰府と言うのは、现代人のイメージとは全く违った存在でした。倭国の异称・「九州」の意味を皆さんはご存じでしょうか? これは字义通り、「九つの国(州)」の事です。倭国は九ヶ国で构成されていたので、「九州」なのです。これは関东地方をかつて「関八州」等と言ったのと同じです。その九ヶ国の统治を朝廷に代わって代行したのが、太宰府なのです。これは东北(虾夷)地方の统治を朝廷に代わって代行した「奥州镇守府」と同じです。そして、近・现代史に当てはめれば、「朝鲜総督府」や「台湾総督府」と同じ、つまり、「新たな领土となった他国(植民地)経営の为の行政机関」なのです。その様な机関である太宰府が九州に设置されたと言う事実が物语るものは、一つ。やはり、「倭国は灭亡した」と言う事なのです。
白村江の戦がもたらしたものは「倭国の灭亡」だけではありませんでした。筑紫君萨夜麻らの帰国は、唐人2000人の「进驻」(日本书纪に记述)を日本侧に告知する为になされた措置だったのです。つまり、先の大戦终结後、米军が「进驻」してきたのと同様に、唐人が进驻してきたのです。更に、様々な资料から、唐人だけでなく、もう一方の戦胜国・新罗人も、亡国の民・百済人も、日本に流れ込んできました。日本侧の史料では、彼らを日本に「帰化」したと书いていますが、実际は、日本に「进驻」したと言う方が正しいでしょう。その证拠に、その後の「亲唐路线」や、朝廷内に於ける「帰化」系氏族の増加(彼らの多くが先の败戦まで「贵族」としての特権を有していた)と言った事実が挙げられます。
もし、近未来の朝鲜半岛で有事があった际、日本が日米防卫协定(现在调整中のガイドライン)に则って介入し、「败戦」したとしましょう。おそらく、その时は、白村江の败戦同様、中国人民解放军が日本に进驻、五星红旗をはためかせ、日本政府に中国人の阁僚を多く送り込み、「亲中路线」と言うよりは、「中国の属国としての日本」を强要すると言う「悪梦」が现実のものになるのでは无いでしょうか? これが単なる「悪梦」ならば良いのですが、军拡まっしぐらの中国・北朝鲜情势・「歴史は缲り返す」と言う法则が重なり合い、「现実」にならなければと只々愿うばかりです。
提供情报
以下、平成16(2004)年11月4日に、50代男性の読者から顶いたメールをご绍介致します。
「白村江で検索して、ここを见つけました。
学士会会报2004-VI No.849の『法隆寺のものさしは中国南朝尺』川端俊一郎著 pp104-124に、
「倭の五王が筑紫にあって、白村江の戦いでこの王朝が灭亡し、法隆寺は筑紫にあったものを移设したのでは」
との说が、建设に用いられた寸法标准の违いから说かれていて、非常に说得性があります。
ご参考まで。」 |
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